思いつれづれ2007/12/16 16:07:01

礼拝と集会を終えた、教会からの帰りのバスで。
席に着いてからいきなり、わたしの前に座っていた年配とおぼしき女性が先頭の座席に移った。どうやらわたしを避けたらしい。別に何かしたわけでも、会話を交わしたわけでもない。まったく知らない人だ。なのにまるで近寄るなと言わんばかりの、嫌悪感丸出しの、遠ざけるような態度をみせた。

一瞬怒気を浮かべたけれど、相手にしない方がましである。いきなりわけもわからずに一方的に避けられて理不尽な対応に腹立たないわけはない。が、そんな低レベルの人とまともに相手をするのは、こちらも時間と体力知力の無駄というものである。聖書にある「こころの貧しい人」という言葉を思い出す。聖書の語る本来の意味とは正反対に、差別とも受け取れる態度姿勢をむき出しにしたその女性の、心の低さを感じ、聖書がいう「こころの貧しい」とは反対の、そういう人と接したことで自分はどうありたいか。考えさせられた。

コミュニケーションでは幾度となくいやな思いや厳しい誤解などを経験してきた。
以前、ある聞こえる女性とお会いしたことがある。
事前に彼女に、わたしが重度の聴覚障碍者であることを伝えてあったが、いざお会いして、なかなか会話が続かない。女性は男性が一方的にしゃべることを好まない。反対に女性は自分の話を聞いてほしいものだ。
だから彼女にも、できるだけ聞き役になるように、話しやすいように、さりげなく接したつもりだったが、会話がすすまない。聞こえないということでどう話したらいいのか、測りかねているらしかった。
長い沈黙が、気まずい感情とともに続いて結局彼女と会ったのはそれっきりで終わった。

聞き役になりたいと、わたしは思っている。昨日の朗読仲間との忘年会でもバーで独りでいる女性にどう接したらいいか、という話題になってわたしは、さりげなく、押しつけたり圧迫感を与えないように話を聞いてあげたいと言った。

いまならどうだろう。はたして聞き役になれるだろうか。
しかし、できるだけ聞き役でありたい。たしかに聞こえないし、聞こえる人が相手であればなおさら、ギャップがある。聞こえないのに普通に話せるから、相手はつい、聞こえる人と同じように思ってしまう。
ギャップとジレンマは大きいけれど、自分の話を一方的にするのではなく、相手にとって楽しいと思ってもらえるような、こころをひらいてもらえるような会話ができるようになりたい。

仲間たちの前で2007/12/16 21:17:40

昨日、朗読クラスのミニ発表会と忘年会。終わってから夜は手話サークルの忘年会。2つもあって忙しい1日だったが終わってホッとしたところ。

ミニ発表会はまあまあ。2回の出番のうち、2度目でミスをやらかした。「枇杷の実」と読むべきところを「枇杷のビ」とやった。みんな気づかないふりをしてくださったけれど、わたしはもうあきれてものがいえない。朝日のア、サイタサイタ、サクラガサイタ……、イトー、ロボーノトー、ハーモニカ……と、かつての古い国語教科書を読んでいるかのような、基本的ミスである。

忘年会ではもっぱら聞き役というか、皆さんが楽しく団らんしているところを見ながら雰囲気を味わい楽しんだ。

移動して手話サークル。
ここで、今年9月22日の朗読舞台を再演した。あのときも何人か難聴の友人が来てくれたけれど、今回は実質難聴者がほとんどである。
できはよかったと自分では思っている。台本に目をあまりやらずにスムーズに演じた。

しかし終わってから、みなさんからいただいたご意見。スライドやOHPは、内容を理解するに役立ったと言葉をいただいた。
難聴者の情報保障としてつくったそのOHPが、字が小さくて読みにくかったという。字の大きさは14ポイントでつくったのが、それでも見づらかったという。もうちょっと、18ポイントか20ポイントくらいにして、OHPの枚数が増えるのはしかたないとして、見やすい工夫が必要だろうか。
もうひとつは、舞台のライトが暗くてわたしの手話も顔もよく見えなかったという。
これは部屋がもともと演劇を上映するための照明設定がない、普通の部屋だから限度がある。もし次回やるなら、もっと舞台に適した照明のある部屋が必要かもしれない。

ともあれ、聞こえる人たちに手話つき朗読、難聴者でも朗読ができるということと手話への理解が深まったかもしれない、前回と反対に、難聴者やろう者にも楽しんでもらえるパフォーマンスができた。

いつかまた機会があるなら。もっと多くの難聴者やろう者にお見せできる機会があるなら。
もっともっと練習をして、よりよい舞台をつくってみたい。