恐れずに今日を生きて明日も、また生きよう2007/06/10 21:41:53

野に咲く花
今日の礼拝説教では、11歳で病気のため亡くなったある女の子の詩が読まれた。
牧師先生の許可をいただいて、ここに引用してみたい。


                 命

                                  宮越由貴奈

    命はとても大切だ
    人間が生きるための電池みたいだ
    でも電池はいつか切れる
    命もいつかはなくなる
    電池はすぐにとりかえられるけれど
    命はそう簡単にはとりかえられない
    何年も何年も
    月日がたってやっと
    神様から与えられるものだ
    命がないと人間は生きられない
    でも
    「命なんかいらない。」 
    と言って
    命をむだにする人もいる
    まだたくさん命がつかえるのに
    そんな人を見ると悲しくなる
    いのちは休むことなく働いているのに
    だから  私は命が疲れたと言うまで
    せいいっぱい生きよう

たまたま偶然のことだけれど、テレビのリモコンの具合がおかしくなって今日、電池を取り替えた。また、補聴器のスペア電池を買いだめした。いつ切れるかわかったものではないから、ストックが必要なのだけれど、安い価格だったのでまとめて購入した。
もしあしたわたしが死んだら、コンタクトレンズもストックした電池も、使う意味がなくなるかもしれないけれど。

「日記」でも、アンネが隠れ家の生活で肉体と精神が変化し、恋人への思慕と性にめざめ、人を好きになり欲求から深く高い愛へ昇華していく成長の跡をみることができる。そして戦争や武力に訴えることへの強い怒りをつづっている。
人間は成長し変化することができる。可能性をもったいのちある存在なのだ。

電池は交換すればいいけれど、いのちは交換ができない。再生することもできない。

わたしを取り巻く周りがどうであれ、もし世界中のすべての人がわたしに反対したとしても嫌ったとしても、わたしはかけがえのないたったひとつのいのちをいただいている。よく考えてみよう。わたしは有名人ではないし権力があるわけでもない。世界に知られた存在でもない。だから世界中のすべての人がわたしを嫌い、反対するなどということは、いまはありえないことなのだから。
だから、恐れずに今日を生きて明日も、また生きよう。

渇水か? 猛暑か?2007/06/11 23:20:58

2007年5月の奥多摩湖
気象庁の本日発表によると、太平洋赤道域で「ラニャーニャ現象」が起きているとみられるという。
気象庁ウェブサイト
http://www.jma.go.jp/jma/press/0706/11a/elnino200706.html

ラニーニャ現象は、赤道付近で東風が強まり、インドネシア近海の対流活動が平年より活発になるなど、世界的に異常気象を起こすとされる。気象庁の発表では秋まで続く可能性が高いらしい。

ここで気になるのは、ラニーニャ現象の影響で日本の南の太平洋高気圧が強まり、暑くなる傾向があるという。つまり、今夏は猛暑になるかもしれないということがひとつ。
もうひとつは梅雨入りが遅れていることとからめて、渇水が予想されるということだ。

写真は今年5月にハイキングで歩いたときに撮影した、奥多摩湖。
今の状態ではないので、1カ月前と比べてどうであるか断言できないが、西日本では春先から雨量が少なく、梅雨入りが遅れているなど伝えられている。東日本でもダムの貯水量が減っているところもあるらしい。ちなみに東京は平年で6月8日前後に梅雨入りするのだが、今日現在まだ梅雨入りしたという発表がない。

今年3月はまったく雪が降らない天気だった東京。
暑さがどのような影響をもたらすか、地球環境の変化とあわせてとても不安を感じるのはわたしだけだろうか。

詩編23篇2007/06/12 00:02:45

先週日曜日の礼拝で読まれたもうひとつの聖書の個所。旧約聖書詩編23篇。
新共同訳と文語体聖書の両方を掲示してみたい。

新共同訳

    主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
    主はわたしを青草の原に休ませ、
    憩いの水のほとりに伴い
    魂を生き返らせてくださる。
    
    主は御名にふさわしく
    わたしを正しい道に導かれる。
    死の陰の谷を行くときも
    わたしは災いを恐れない。
    あなたがわたしと共にいてくださる。
    あなたの鞭、あなたの杖
    それがわたしを力づける。
  
    わたしを苦しめる者を前にしても
    あなたはわたしに食卓を整えてくださる
    わたしの頭に香油を注ぎ
    わたしの杯を溢れさせてくださる

    命のあるかぎり
    恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
    主の家にわたしは帰り
    生涯、そこにとどまるであろう。

文語体

    エホバはわが牧者なり われ乏しきことあらじ
    エホバは我をみどりの野にふさせ
    いこひの水濱にともなひたまふ
    エホバはわが霊魂をいかし名のゆゑをもて我を
    たゞしき路にみちびき給ふ
    たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害をおそれじ
    なんぢ我とともに在せばなり なんぢの苔なんぢの杖
    われを慰む
    なんぢわが仇のまへに我がために筵をまうけ わが首に
    あぶらをそゝぎたまふ わが酒杯はあふるゝなり
    わが世にあらん限りはかならず恩恵と憐憫とわれにそひきたらん
    我はとこしへにエホバの宮にすまん

「それが何か?」2007/06/13 07:39:20

ふだんあまりテレビをみる余裕も時間もないのだけれど、テレビドラマの影響はものすごく恐ろしいことをつくづく実感することがある。

今年はやった言葉に「それが何か?」というのがある。
これはあるドラマの主人公が使ったせりふだそうだ。

でもなんだかねぇ。

飲み屋だとか冗談が言える気軽な場面で、なおかつ相手も冗談が通じる人ならこの言葉を口にしてもかまわないのだけれど、しらふで、職場だとか会議だとかオフィシャルな場面では使うべきではない。

なによりわたしはこの言葉に、相手を遮断して受けいれない拒否するという陰湿な感情をかぎとってしまう。こういう言葉を面と向かって言われると「あんた何様?」と逆に怒鳴り返してしまうかもしれない。

コミュニケーションの難しさは日頃から実感していることだけれど、こういう一方的かつ相手より優位に立つような、高慢な(昔の言葉で言えばタカピーな)態度は間違っても口にしたくないしまして手話で表したくない。

ようやく梅雨入り2007/06/13 23:05:08

といっても九州北部と山口の話。これでも平年より8日遅いのだそうだ。

東京は明日雨の予報。そろそろ、かな?

もう遠い世界のことになってしまったのだろうか2007/06/14 23:12:04

東京も今日から梅雨入りと伝えられた。
ラニャーニャ現象が起きた年の梅雨明けは例年より早く、暑さも厳しいといわれている。はたしてどうなるか。

さて、子どものころ歌った童謡をこのごろ思い出す。

♪雨あめ降れふれ 母さんが 蛇の目でお迎え うれしいな

ここで出てくる蛇の目とは、和傘のひとつ、蛇の目傘を指す。
番傘より細身で軽い、きれいな装飾が施されたものだそうだ。京都を訪れて舞妓さんが傘をさして歩く。その傘が蛇の目傘と呼ばれる。

最近はめったに和装姿の女性をみかけなくなり、蛇の目傘も見ることがなくなった。この童謡を聴いても、ご年配のかた以外は分からないかもしれない。

どう考えても、ぶちまけたような雨ではうれしいという気持ちにはなれない。

小さいころにお母さんが傘を持って待っていてくれた。
そのホッとした気持ち、雨の中で感じた楽しみはもう遠い世界のことになってしまったのだろうか。

どこまで本気で理解しているのだろう わたしたちはしっかり見続ける必要がある2007/06/15 23:53:51

社会に出てまもなく20年目になろうとしている。
今週もちょっとしんどい出来事が続いた。

障害者の6割「就労支援不十分」・障害者白書
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20070615AT3S1402B15062007.html

2007年版の「障害者白書」によれば、障害者の6割が現状の就労支援策に不満を抱いているのだという。

今年2月から3月にかけて、障害者5000人を対象にしたアンケート結果によると、36%が「この10年間で働きやすくなった」と答えた。反対に「働きにくくなった」は14%。
 
しかし現状に満足しているわけではなく、「障害者が働くことに社会の理解があるとは思えない」「障害を理由に差別を受けたと感じる」という回答もあった。

難しいところであるが、筆者の経験では、「聞こえなくても読み書きができればいい」と言わんばかりの状況もまだまだ感じられる。
聞こえないだけではなく、コミュニケーションが円滑にすすまない、聞こえないからと孤独におかれる苦痛を感じる。聞こえないことの裏側というか奥底には、みえない苦痛があるということに気づいていない、職場の理解の足りなさを感じる。

会議で話されている内容が分からない、筆談で教えてもらったと思ったらもう先のテーマにすすんでしまって、内容をつかむどころか発言するタイミングを逃してしまう。手話や要約筆記などの情報保障があればどんなにか、仕事がしやすい。だがどこの会社も、なかなか情報保障の配慮には不十分である。

白書は「障害を理由にした差別の禁止や権利擁護への一層の取り組みが必要」と結んでいるそうだが、どこまで本気で理解しているのだろう。

白書をつくっただけで終わらせない、本気で取り組むかどうかをわたしたちはしっかり見続ける必要がある。

明日は真夏日になるそうだ。やれやれ……。

暑い!2007/06/16 23:23:35

今日は終日暑い天気。神宮球場でひらかれた全日本大学選手権は30℃を超す気温下だったという。天然芝ではなく人工芝だから選手もたいへんだったのではないだろうか。

明日も終日暑いらしい。
梅雨入りしたばかりだが、ホントに梅雨?

だからこそあきらめずに努力してお互いの壁を埋めていこう。2007/06/17 23:58:35

今日も暑い一日。礼拝最中に体調を崩して倒れた方がいらした。帰りがけにバス停のそばのソファに座っていた、目の不自由な方と立ち話を交わす。
「暑いねえ」で始まり、「梅雨はどこへ行ったんだ」という話で終わった。都内へ入っても厳しい暑さは相変わらずで、夜になってようやく落ち着いたとはいえ、明日も変わらない気温だときいてうんざり。

さて昨日、わたしたちの手話サークルに、新しい方が入られた。うかがうとろう者の使う日本手話を使っていらっしゃる。手話と言っても2つある。ひとつがわたしたち中途難聴者が使う手話で日本語対応手話または単に対応手話という。中途難聴者の多くは日本語としての読み書き、文章構成力があり、文章通りに手話も表すことが多い。日本語に対応した手話ということだ。もうひとつはろう者が使う、手話の文法に合わせて使う日本手話だ。

梅雨入りなら、梅+雨+入る=日本語対応手話。梅+雨+始まる=日本手話。フットボールのディフェンスとオフェンスの選手が一対一で向かい合うように、日本語の文法に対応して表す日本語対応手話に対して、意味やイメージから表すのが日本手話だ。たとえばコンビニエンスストアの「ローソン」を対応手話では指文字で表すが、日本手話ではろう(耳から口へ手を動かして「ろう」)+損(手を口から下へ放るように。損する)というように、イメージや意味からとらえる。

では、中途難聴者とろう者では通じないのだろうか。手話でも違うためにコミュニケーションは成り立たないのだろうか。

中途難聴者から見れば、ろう者のそれは速すぎて読み取りにくいと言われる。ろう者からみれば中途難聴者は文法に忠実すぎる。

昨日話し合ったことだけれど、お互いの違いは厳にある。だからといって通じないと避けるのではなく、分からなかったり納得できなかったりしたらはっきり言うこと。コミュニケーションの壁があるのは難聴者もろう者も同じ。だからこそあきらめずに努力してお互いの壁を埋めていこう。

おとといの記事がきっかけで、いろんな方からコメントをいただいた。思いがけないことに驚き戸惑いつつ、見知らぬ人がわたしの文を読んでくださり、多くの方がコメントをお送りくださったことに、コメントをお送りくださった方々みなさんに、こころから深く感謝したい。
と同時に、地道であっても先が気の遠くなるような時間がかかったとしても、こつこつと1ヤード1ヤードを走るように、お互いの気持ちや立場を忌憚なく話し合える、そんな社会をつくりたい。

偶然だけど写真は3月16日と同じビルだ。カメラを持った立ち位置が少し違うだけ。あの日は夜遅く寒かった。ごらんのようにビルが晴れた青空を裂くようだ。
コミュニケーションを積み重ねて、晴れた青空のようにさわやかな気持ちが残るようになりたい。

想像する力2007/06/18 23:28:57

今年も朗読の舞台に立つことになった。
候補として文語体聖書、『アンネの日記』(アンネ・フランク著)、絵本『だいじょうぶだよ、ぞうさん』(ローレンス・ブルギニヨン 著 柳田邦男 訳)、『塩狩峠』(三浦綾子著)を考えた。そのなかから今回は、『アンネの日記』を読むことに決めた。朗読の先生は、聖書は、他宗教の人がいることを考えると無理ではないかと。『アンネの日記』『だいじょうぶだよ、ぞうさん』がいいとおっしゃってくださった。

朗読仲間からは「重苦しい内容だよ」と、『だいじょうぶだよ、ぞうさん』のほうがいいのではないかと言われた。この作品は読むと10分を超えてしまう。長すぎるのでカットするなど工夫が必要だという。しかしカットすると、物語の流れが分からなくなってしまう、主人公であるゾウとネズミの成熟成長が描かれない。かといって書き換えるのは許されないことである。

重苦しい内容ではあるが、今日なお世界で戦争があり、傷つき死が身近にある人々がいる。けっして色あせないテーマである。演じ読む意味はあると、『アンネの日記』に決めた理由である。できるなら日記の一部を手話つきで読んでみたい。

もし時間が許されるなら、事前にアンネが住んだ、オランダのアムステルダムの隠れ家と、先日見た映画『ドレスデン、運命の日』の舞台、ドレスデンを訪れたい。アンネの最期の地、ベルゲン・ベルゼン強制収容所はドイツ北部にあるが、交通機関が少なく宿泊場所もないため、断念するかもしれない。アムステルダムでアンネがおくった日々を想像し、ドレスデンも映画に描かれた惨禍からの復興をみたい。がれきから再建された聖母教会も。

ドレスデンとアムステルダム。人間の本性は善であると信じ書いたアンネと、大量虐殺を行い多くのいのちが奪われたドレスデン。そこに何を見、どう感じるのか。

追体験することは難しくても想像することはできる。
想像する力がないと、他者への共感も理解することもできないのではないだろうか。

朗読舞台が終わったら、今度は手話ソングに取り組むつもりだ。何曲かやってみたいものがある。


謙虚に、率直に、真摯に向き合い、話を聞けるようになりたい。
耳がきこえなくてもこころは不自由ではない。