笑ってくれるというのと、笑われるというのは違いますよ2007/06/02 23:26:11

朗読のステージまであと3カ月。実際はそんなに待ってくれない。練習もあるしBGMの選択もしなければならないし。

聖書を読むと決めてはいるけれど、ひとつの案として「大阪弁聖書」を読んではどうだろうか、というアドバイスをいただいた。
テキストは『コテコテ大阪弁訳「聖書」(愛蔵版)』。データハウス刊  ナニワ太郎 (翻訳)、大阪弁訳聖書推進委員会 (翻訳) 。

キリスト教出版社、あるいは聖書を出版している専門の会社というわけではないが、こういったこころみもおもしろいだろう。そもそも聖書とはどういう本なのか。教会に行く信徒ならまだしも一般の人にとっては聖書は、敷居の高い書物か、遠い世界の本、というのが常識かもしれない。そこにコテコテの大阪弁で書かれた聖書ならどうだろうねぇ、というのがこの本の目的であり意図するところだ。

しかしなぁ。
思うにネィティブ、地元の人ではない人間が、偉そうな顔をして大阪弁の朗読をしていいのかね、かえって失礼じゃないかという気もしないではない。
今日朗読の仲間にきいてみた。やりたいと思うものをやるのが一番。かえって笑いをとればいい。という返事。聖書を読みたいと思ったが、方言とは、かえって失礼だろうという気持ちがまだある。

あのなぁ。笑ってくれるというのと、笑われるというのは違います。
それを自覚する必要がわたしにはある。

というわけで、もう少し思案をしてみよう。
別の案として、「大切な人を失おうとしている、あるいは失った悲しみのある人たちに寄り添う」という目的で、絵本を読んではどうか、と銀座の書店で絵本を注文した。

青空の新宿。
すてきな一日だった。