絶望から希望へ2007/04/21 23:29:10

デルフィニウムとバラ
今日は今月最後の朗読のレッスン。短い個所を読むよう指定されて読んだ。先生からおほめをいただけてとてもうれしい。感情を切り替えたり間をとったりして演じてみた。やっぱりわたしは読むと言うより演じるというほうが好きなのだ。

「千の風になって」と「最後の一葉」のどちらか、あるいは別のテキストを、9月22日の生涯2度目の朗読でやってみようと思う。「千の風になって」なら手話でやりたい。

「最後の一葉」について。
今日朗読の仲間に話したのだけれど、これは絶望から希望へ立ち上がっていく、再生していく物語といえないだろうか。
ふたりの肺炎患者、スーとベアマン。スーは窓の向こうのれんがの壁にあるつたの葉が一枚また一枚と落ちていって最後の一枚が落ちたら、自分もまた死んでいくのだと、断固として思いこんでいる。それをなんとか生きる希望を抱かせたいと必死なまでに看護にあたる、ジョンジーだが、スーのかたくなな態度にいらつき、困惑を示し始める。
かたやベアマン。生涯最高の傑作を描くのだといいながら、手付かずのままのキャンパス。しかし同じアパートに住む若い絵描きのためならと、モデルになりわずかな収入で口を糊している。
その対照的な存在。嵐の夜に誰にも見られることなく、ベアマンが遺した最高の傑作。それは壁に描いたつたの葉。

昨年わたしは『地球交響曲』でこう読んだ。

ルートヴィッヒは勇気と意欲が全身にあふれてくるのを感じた。耳鳴りがますますひどくなり、外部の音がなに一つきこえなくなっても、心のうちから音楽は湧き出てくる。自分の弾くピアノの音さえきこえなくなり、演奏で人を感動させられなくなっても、魂のあるかぎり音楽は湧いて出るのであある。他人と会話できなくなっても、曲はつくれる。いや、聴覚になんの支障もない音楽家には思いも及ばぬ個性あふれる曲が生まれるかもしれないのだ。
なにも恐れることはなかった。ベートーヴェンがベートーヴェンであるかぎり、音楽は無尽蔵に発掘できる。肉体の障害などというものが、魂の自由を制約できるはずがないのだ。創造は魂の営みである。だれにもそれを押しつぶすことはできない。聴覚どころか視覚、触覚、いや五官のすべてを失ったとしても、他の追従をゆるさぬ音楽を書いていけるにちがいない。

長い引用になった。
聞こえなくなっても魂は不自由ではない。魂のある限り、「聴覚どころか視覚、触覚、いや五官のすべてを失ったとしても、他の追従をゆるさぬ音楽を書いていけるにちがいない」。

もし「最後の一葉」を演じるとしたら。どんな厳しい状況にあっても、彼方に希望がある。立ち直り再生していく力がある。
絶望の彼方に希望は必ずあるのだというメッセージをこめたい。
  
写真は、行きつけの喫茶店「教文館」で撮影した、デルフィニウム(紫)とバラ(クリームイエロー)。

暖かくなったら、バラを撮影に行こう。