昨日も今日も明日も希望を抱いて2006/11/08 22:26:11

医療問題をみるとき一番こわいのは、病んでいる人を前にして、人間としての感情や理性がマヒしてしまうこと。自分の目的のため、利益獲得のために目の前にいる患者さんに対して、尊敬だとかいたわりだとか、ごくあたりまえの感情が失われてしまうことだ。

第2次世界大戦終結50年の節目に、わたしが訪れたポーランドのアウシュビッツ強制収容所でみた、ガス殺に使われたチクロンBの缶や、犠牲者の頭髪や皮膚からつくられたバッグなどは、おぞましい人間の所業の愚かさと恐ろしさをまざまざとみせつけた。

愛媛県宇和島市の病院で、病気の腎臓を移植に使っていたとされる問題がニュースで何度も報道されている。どこまで事実を伝えているかという真実性があるが、伝えられている報道をみると、この病院の医師は使えるものであればなんでもいい、という姿勢だったようだ。厚生労働大臣からも、「非常に異常じゃないかと思う」という感想が出ているほどだ。

功名心がなかったか。自分の発想やアイデアの正当性を主張したいがために人間としてのモラルを捨ててしまったのではないか。なによりも、病気に侵されている臓器を移植するという治療法、さらには臓器提供者(ドナー)と移植患者との関係について、カルテの続き柄欄が空白だった例が5件あったなどと伝えられているところをみると、人体実験とみられてもおかしくないのではないかという疑問を感じる。

わたしは医療について詳しい者ではないが、合法的に毒性もあり得る薬物を投与でき、メスを持って切ったり縫合したりという手術もできる、医師という
職業には、ほかの職業以上に倫理観や人生観が深く問われると思う。
一瞬の判断ミスや思いこみが、患者のからだやこころを深く傷つけ、取り返しのつかない事態を招きかねない。航空機のパイロットやバスのドライバー、地下鉄や列車の運転士が多くの乗客乗員のいのちを乗せて無事に目的地まで到着できるようにする責任以上に、重要である。なぜなら、これらパイロットやドライバーは無事に到着するのがあたりまえであるのに対して、医師は治るか治らないかという極限のたたかいをしている患者さんを、不安や苦しみから解放させ、治るという希望を治ったという喜びを抱かせるために存在しているからだ。しかしこの世にはまだまだ不治の病がたくさんある。それでも多くの患者さんとその家族は治るという希望を失わずに、今日もたたかっているのだ。

もし報道されていることが事実だとしたら、とんでもない事件であると思うし、この医師にはたして医師である前に人間としての倫理観はどうなっているのかと問いたい。

昨日も今日も明日も、病気とたたかい、治るという希望を確信に変えようとしている患者さんやその家族をふみにじるような行為は、けっしてあってはならない。

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