ものは言いようというけれど2006/10/31 23:48:22

連日のように新聞やテレビをにぎわせている、教育をめぐる話題ニュースのひとつ、いじめ。長崎でいじめを苦に自殺を図った女子生徒が亡くなった。バレーボール部内のいじめが原因で中学2年生の女子生徒が亡くなった、岐阜県瑞浪市の市立瑞浪中学校は、当初「いじめではない」と否定し、その後遺族が問いつめたあとで学校側が記者会見をひらき、「誘導尋問のようだった」などと釈明をした。危機管理のまずさとしかいいようがないけれど、今日になって「いじめた」と遺書で名指しされた生徒の両親らが遺族を訪れて謝罪したという。どんなに謝っても、失われたいのちはけっして戻ってこない。起こってからでは遅いのだ。いじめたとされた生徒は、どんな心境なのだろう。やりきれなさをおぼえる。

さて、ここ数日また、読書に集中している。
いまのわたしにとってのテーマはいくつかあるが、「聞き上手」というかコミュニケーションだ。

『信頼される人のキメのひと言』(浦野啓子 著、幻冬舎セレクト)を一気に読み終えた。読後感としてまず、「なるほど。こういう言い方があるのだね」ということを感じた。
たとえばごちそうをいただいたとき。「ありがとう」だけではありきたり。つまらなかったのかおいしくなかったのか、とかえって相手に疑いを与えてしまいかねない。たったひとこと「いつも」を付け加えることで、ぐっと感謝の気持ちがこもった言葉になる。
こういう言い方もあるんだなぁと、ひざを打ったのは、食事に出されたものに苦手なメニュー、嫌いなものがあったとき。「うえっ」と内心は思っても顔に出してはいけないことは社会人として常識。ではどうするか。筆者は「ほんとうにごめんなさい。ほかのものは2倍3倍いただきますから、これは残させて」と言うのが礼儀だという。う~ん。わたしも覚えがなくはない。高校時代、恩師の自宅に泊まったとき出されたのは、うずらの卵。あのころはどうしても苦手でねぇ。でもそんなことは言っていられない。あこがれの人だったからがまんしてでも食べた。それがきっかけになったのか、いまはもう気にならなくなった。

もうひとつ、宴席でお酒が出されたとき。
わたしはまったくのめないので、いつもウーロン茶ばかりのんでいるのだけれど、社会人になりたてのころは上司や年配の人の注いでくださったお酒を断るのも大人げないと、無理をしていたこともある。いまはいい時代だよねぇ。アルコールハラスメントという言葉があるのだから。おまけに飲酒運転は即刻解雇される。

で、話を戻して『信頼される人のキメのひと言』ではどうだろう。
筆者は「今検査中なのでのめないのです。わたしのぶんもぜひどうぞ!」とひと言。納得、の一方でこれは、ユーモアがないとだめだね。まじめな顔をしては絶対にいけない。なぜかというと「検査中」と言ったために「あれ? いまどこか悪いの?」とあらぬ方向へ話が飛んでいくおそれがある。くわえて「わたしのぶんもどうぞ」とやると、のめる人に無理強いをすることになり、へたをするとかえってハラスメントになるかもしれない。

けれど、いじめのような暴言や相手の人格を否定したり無視したりするようなものではなく、ちょっとしたコミュニケーションの潤滑油があれば、話が弾むだけではなく、お互いをより深く理解していくことにつながるに違いない。

もうひとつ別のいじめでは、なんと教師が生徒をいじめて、それに触発された別の生徒が「自分たちもいじめていいんだ」と錯覚していじめに加わったという。発端となった教師の言動は「偽善者にもなれない偽善者」など、教師として以前に社会人として言ってはいけない言葉ばかり。遺族が「一生(この)教師を許さない」と怒るのも当然だ。

ユーモアといじめは紙一重のようでいて、実際は違う。
それはどこからくるのだろう。やはり「相手の身になって」ということが一番大きなことではないだろうか。

わたしも難しいとつくづく感じさせられているのだけれど、自分を優先事項、第一にするのではなく、少しひいてみること。わかってほしいではなくて、相手を理解しよう。自分は後回しにして。

難しいことだけれど、ゆっくり続けていけばきっと、相手にも伝わるに違いない。