秋らしい日2006/10/01 23:31:53

昨日、中野で朗読の初舞台に向けたミニレッスンのあとに一人で、会場のある下北沢に行ってきた。下北沢というと昨年、フライングハンズのステージで行ったことがある。そのあとに横浜でのショーにも出たけれど、これがフライングハンズのほとんどのメンバーにとって、真理子さんとの最後の舞台だったことを思い出した。懐かしさとせつなさが交錯した、下北沢である。

日付は変わって今日から10月。つくづく早いものだと感じさせられる。
外は雨、今日は仕事でこんな時間に帰ってきたけれど明日も雨の予報だ。

やまない雨はないし、明けない夜もない。

また明日からゆっくり歩こう。

自分から変わらなければ2006/10/03 23:35:18

早いものでもう10月。来月にはとうとう41になる(T_T)。

ま、自覚ないままに年を重ねてきたような気がするけれど、残りの人生は少しでも自覚あるような生をおくりたいものだ。

いまはまだきつくしんどい時かもしれない。しかし絶望と苦しみをしっかり見つめているときこそ、将来に希望を見いだせるチャンスなのだ。

自分を信じ未来を信じて、自分から変わっていこう。

自己を省みて自ら変わらなければならない2006/10/05 00:05:42

いっこうにやまないテロのあらしのなか、わたしたちができることは何だろうか。宗教指導者や政治家に対して怒りと不満を叫ぶことも大事だ。自分たちをまるで神の代理人であるかのようにふるまう、宗教指導者や政治家の一部には、断固として強制されたり支配されたりすることを拒否する。

しかしそれだけが道ではないと思う。
わたしたちもまた、変わらなければならないのではないだろうか。

アジア最大のイスラム教国家といえばインドネシアだが、無視できないイスラム教国家のひとつ、マレーシアの前首相、マハティール・モハマド(YABhg Tun Dr. MAHATHIR bin Mohamad)がこう語っている。

 かつてイスラム教徒たちは見識を積んだがゆえに力があった。(中略)初期のイスラム教徒は、偉大なギリシャの科学者や数学者、哲学者たちの著書を読んだ。ペルシャ人やインド人、中国人たちの著書からも学んだのである。(中略)ところがイスラムの有識者たちは、15世紀ごろから科学的な研究を抑制し始めた。彼らは、特にイスラムの法体系を学ぶ者だけが死後の勲功を享受できると主張し、宗教のみを学び始めたのだ。

そう書いたあとで、彼はイスラム世界の知的後退期が、視野の狭さを生み、今日のイスラム教を苦境へ導いたと論じる。

イスラム教徒ではないわたしが、この論について賛否を述べる資格はない。ましてこういう思い切った発言ができるのは、彼が前首相という政治家だからできることであることに、注意しなければならない。

マハティールはさらにこう書いている。

 コーランは、「わたしたちが変える努力をしなければ、アラーはわたしたちの不幸な状況を変えない」と諭す。ところが多くのイスラム教徒はこれを無視し続け、失われた栄光の回復をアラーに祈っているだけである。
 わたしたちイスラム教徒は自己を省みて、自ら変わらなければならない。アラーは悔い改める者を救うのだ。

イスラム教とキリスト教。
けっして対立ではないし、憎むべき相手でもない。
イスラム教徒である彼が言っているように、自己を省みて、自ら変わらなければならない。わたしにいのちをあたえわたしをおつくりになられた創造主たる神は、悔い改める者を救うのだ。

だから、神さまにつながっていこう。いまはきつくてもかならず約束の地に導いてくださるのだ。

疲れたぁ2006/10/07 23:35:36

朝9時にJR三田駅近くにある、港区スポーツセンターに入って卓球練習を2時間あまり。終わってシャワーを浴びてそこそこに新宿へ朗読のレッスンに行く。お茶をのんで今度はまた三田へ戻って手話サークル。のめないけれど食べておしゃべりをして帰ってきた。

疲れたぁ。

おやすみなさいm(_ _)m

平和なのかどうか2006/10/09 22:24:57

今日お昼前に携帯電話の速報ニュースに飛び込んできたニュース。北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国が地下核実験を行ったと伝えられた。核実験に伴う地震波も確認されたという。

ひるがえって日本。
お昼過ぎに近くの公民館でダンスフェスティバルがあり、若者たちが公民館前でヒップホップなどのダンスを練習していた。

核実験を行うだけの軍事力がある一方で、独裁体制に従わない一般市民を銃殺する、食糧難が相次ぐと伝えられている北朝鮮。
核実験がすぐ隣の国であったにもかかわらずダンスに興じている若者。

だからといって日本も核武装せよ、軍事力を増強せよ、という短絡な発想や言動には走りたくないし、日本にいる北朝鮮系団体の人たちや朝鮮学校で学んでいる子どもたち少年少女を差別しようとも迫害しようとも思わないし行動にも走る気はない。はっきりいえば政治体制や指導者が悪いのであって、彼女らには責任がないのだから。彼ら彼女らもまた、政治体制の犠牲者なのだ。

思い出すのはかつての日本だ。
軍縮会議での軍縮案に反対して堂々と国際連盟から脱退して独自の行動に走り、兵士を飢餓や戦場で失い国民に多くの犠牲を要らせ、最後には2発の原子爆弾という大きな犠牲を払ったかつての日本。
政治体制が違うようにみえるが、個人崇拝を自国民に強制させ国際社会に背を向けるという意味ではまったく同じにみえてしまう。

かつての日本がたどった道と同じ歩みをしていいのか。
なぜ、そう言えないのか。

悪の枢軸国、などとレッテルをはっても意味がない。

ともあれ、いつになればこころ安らぎ幸せな生活が送れるようになるのだろう。たたかうことのない星になるのはいつのことだろうか。

朗読と音楽2006/10/11 23:55:41

今週土曜日に迫った、生涯初めての朗読舞台のため、CDを選んでおいた。もっともすでに購入済みで、曲はベートーベンのピアノソナタから、使う曲は第31番に決めてある。

ものの本によれば、この曲は1821年12月25日に作曲されたという。恋人だったヨゼフィーネがこの世を去ったあとに書かれた、愛する女性を失った悲しみがこめられているのだという。

言い尽くせない悲しみということでは、やはり5月のあのできごとを思い出す。
しかし、同時にわたしは、神のみもとで安らぎをおくっているであろう、あの人に届くように、そしていつかはわたしも神のいらっしゃるところへ行くのだから、いまはできることを精いっぱいやろう、初めての朗読舞台も手話ソングダンスも(今年はまだ一度もステージがないけれど)人生をかけて、演じたいと思う。

フクザツな心境ですね。素直に喜べないな2006/10/13 22:00:29

2006年のパ・リーグプレーオフは、北海道日本ハムが福岡ソフトバンクホークスを1-0でサヨナラ勝ちをおさめて、名古屋の中日ドラゴンズと対戦することになった。北海道日本ハムの日本シリーズ出場は1981年以来、旧後楽園球場時代、ユニホームがMajor LeagueのHouston Astrosをモデルに……いや、パクった、センスの悪いデザインだったとき以来(^_^;)。

北海道にとっては今夏の高校野球以来の盛り上がりですし、巨人一辺倒だった(実際遠征で来るときはたくさんお客さんが来たし、読売新聞の販売拡張にも影響がありました)のが、地元密着の球団ということで様変わりしたようです。

しかし。
すっきりしないなぁ。なんといったらいいのだろう、目の前においしいカレーライスを出されて食べたところへ中一日おいて今度はジンギスカンを出されたという感じです。たとえになっていないか(^_^)。

何が言いたいかというとプレーオフシステムなのですね。すっきりしない理由は、リーグ優勝チームに1勝のアドバンテージが与えられたということ。自動的に与えられたというやり方がすっきりしない。たしかに福岡も所沢の西武ライオンズも、それぞれ2位と3位なのだから不利ではあるけれど、自動的に1勝がつくなんておかしくないか?

Major LeagueでもNFLプロフットボールでも、ワイルドカードといって、リーグ優勝チーム以外の最高勝率を挙げた1チームにプレーオフへの参加が許されています。いま熱戦が繰り広げられているAmerican League、National Leagueを例にすると、National LeagueはSaint Louis CardinalsとNew York Mets。両チームとも地区優勝チーム。American Leagueの Detroit TigersはWild card(リーグ優勝チーム以外の最高勝率チーム)として、地区優勝を遂げたOakland Athleticsと戦っているわけだ。
 それでも地区優勝チームに自動的に「はい、1勝ね」とはいかない。勝ち上がっていく上で日程上試合が後に組まれているだけ。有利なのはそれだけ。

だからすっきりしないのだなぁ。
こんなアホらしいプレーオフ制度ではねえ。

2位になったのも3位になったのもリーグ戦の結果。
1位が有利なのは仕方ないし当然だけれど、公平さに欠ける。それがわたしの気持ちだ。日程だけならまだしも、勝ち数によってこんな結果になるなんて。 
かといって、もし福岡が優勝していたら、リーグ戦で3位のチームが日本シリーズに出るの? と言われるだろう。おかしいと思うだろうけれど、勝ち上がってきたことは無視できないのだから、リーグ優勝チームに値すると思う。過程ではおかしいかもしれないけれど結果としては公平ではないだろうか。

Major LeagueでもPro Football、NFLでもWild cardのチームがプレーオフを勝ち進んでChampionship、World SeriesやSuper Bowlに出場しても誰も文句言わないし聞いたことさえない。わがOakland RaidersはNFL史上初のWild cardからSuperBowlに出たチームだけれど、だからといって文句が出たとはきいたことがない。

書いてみてあ、こういうことかと気づいた。
過程のなかでの平等か、結果としての平等なのか。
ことの本質はここにあるのかもしれない。
どちらにしてもフクザツな心境ですね。素直に喜べないな。

なにも恐れることはない2006/10/15 23:00:47

昨日下北沢でひらかれた、生涯初めての朗読発表会。4年近く学んできた成果というほどではないけれど、自分だけで読むのではなく仲間に、聴衆に聴いてもらうことで初めて成り立つ「朗読」だ。今回使ったのは前にも何度か触れた、「地球交響曲」から、「疾風怒濤」の章。

    耳鳴りがますますひどくなり、外部の音がなに一つきこえな
   くなっても、心のうちから音楽は湧き出てくる。自分の弾くピア
   ノの音さえきこえなくなり、演奏で人を感動させられなくなって
   も、魂のあるかぎり音楽は湧いて出るのであある。他人と会
   話できなくなっても、曲はつくれる。いや、聴覚になんの支障
   もない音楽家には思いも及ばぬ個性あふれる曲が生まれる
   かもしれないのだ。
    なにも恐れることはなかった。ベートーヴェンがベートーヴェ
   ンであるかぎり、音楽は無尽蔵に発掘できる。肉体の障害な
   どというものが、魂の自由を制約できるはずがないのだ。創
   造は魂の営みである。だれにもそれを押しつぶすことはでき
   ない。聴覚どころか視覚、触覚、いや五官のすべてを失った
   としても、他の追従をゆるさぬ音楽を書いていけるにちがい
   ない。

読んでいて一番心を込めたというか、聴いてほしいくだりがあるとしたら、このくだりだ。
ベートーベンがそうだったようにわたしも聴覚障害者であり、手話ソングダンスや朗読という、芸術にとても関心があり自分でも挑戦している。 
聞こえないということはたしかに厳しくつらいことだけれど、だからといって何もできないのではないし、不便ではあるけれど不幸でもない。耳が聞こえる人には思いも及ばぬ何かを生み出すことができる。
わたしがわたしであるかぎり、なにも恐れることはない。このくだりにもあるように、肉体の障害が魂の自由を制約できるはずがない。

わたしがわたしであるかぎり、自分を信じていくこと。
それがなによりも大事なことではないだろうか。

不愉快極まりない2006/10/17 23:32:50

福岡の中学校と北海道滝川市の小学校で、それぞれ生徒と児童のいじめによる自殺が相次いだ。どちらも遺書を読むといたましくつらいやりきれない思いを感じる。そしてさらに不愉快なのは、滝川市の事件は1年前のこと。こともあろうに滝川市教育委員会が遺書を読むことを拒否したり、遺族からの訴えを無視したり自殺の事実を握りつぶそうとしたこと。福岡の事件は担任教師が机に「バカ」「目障り」などと暴言を吐いたことがきっかけだというのだ。

今日の新聞に出ているけれど、福岡のこの中学校で全校集会が開かれ、教師は生徒の前で「甘えていた」と謝罪したという。滝川市の事件も公になってとうとう市教委が報道陣や遺族の前で頭を下げた。しかし、どんなに頭を下げたところで、失ったいのちはかえってこない。

どんなに理由があろうとも、絶対に許されないのはいじめである。
人格を無視し、おとしめ、傷つけるという行為は加害者にどんな理由があろうとも絶対に正当化できないし、あってはならない。

いじめをした滝川の子どもたちはいま、何を考えているのだろう。どう受け止めているだろう。自分たちの行為でひとりの人間のかけがえのないいのちがいなくなってしまった。家族は深い悲しみに包まれている。一生消えない悲しみだ。
福岡の教師は、もし報道で伝えられているような暴言が事実なら、教師として失格である。人を教え導き育てるということをいまさら聖職だなどとは言わないが、いくらなんでも最低の行為であるとしか言いようがない。この教師に向かって言えるとしたら、「自分の子どもだったらどうするつもりだ」。

いじめにあった経験をいくつもあり、一時は人間不信にまで陥った経験のあるわたしとして、北と南で起きた、このふたつの事件は激しい憤りを隠しきれない。いじめは加害者にも被害者にも消えない傷跡を残す。中学校の同窓会があっても行きたくない。30年近くたったいまでもはっきりそう断言する。それほどに傷は大きいのだ。

繰り返す。
どんなに理由があろうとも、差別をし、人格をおとしめ、傷つけることは正当化できない。

生き物に責任はない2006/10/19 22:39:39

わたしは競馬はもちろんギャンブルもほとんどやったことがない。興味がないし。性格からみてハマる可能性があるからでもあるのだけれど、今日の報道で競馬のディープインパクトが薬物投与のため、先日のフランスでの凱旋門賞の成績(3位)がはく奪されるという話には、かわいそうに、馬には責任がないのにという印象をうけた。

生き物であり、人間にどうしてほしいとかああしろとか言うことはできないだけに、人間の恣意や悪意が入り込む余地はある。そこで薬物を投与されたらどうなるだろう。
一番不幸なのは馬だ。そもそも競走馬は現役として長く活躍できるのはほんのわずか。競走中やトレーニング中に足を骨折するなどで薬殺処分されるケースがほとんど。生で観たことはないけれどテレビをみてもあの細い足で重い体重を支え猛スピードで走るのだから、一瞬の事故が命取りになる。来年はディープインパクトは現役を引退して種牡馬になることが決まっていたそうだけれど、そんな余生を送れるのはさらにわずかなもの。ディープインパクトはそんな幸せを得られるわずかな馬なのだ。

と、書いてきて思い出すのはペットのこと。
インコの世話をしていてえさやわら草などを買い求めにペットショップに行くたびに、犬や猫の姿をみる。インコの幼鳥をみたり昆虫や大型の鳥をながめては、かわいいなと思う。
しかしその一方で、飼いきれなくなった、大きくなりすぎた、などの理由で捨てられ野生化したりして、捕獲され薬殺処分されるケースも後を絶たない。

それぞれに理由や事情があるのだろうから一概に一緒くたにすることはできないことを承知の上で、しかし、飼った以上は最後まで面倒を見る、それが飼い主として当然の責任ではないだろうか。

先日書いた、児童・生徒のいじめ自殺事件では、福岡、滝川市の教育委員会に抗議などのメールや電話が相次いだという。では生き物を殺さなければならない、ペットの問題はどうなのだろう。

生き物には責任がない。どんなに生きたいと思ったか。殺される動物たちはどんなに苦しいだろう悲しいだろう。
いじめに抗議すると同じく、同じ生きているいのちある動物たちにも、いたわりと愛のまなざしを送りたいとおもわずにはいられない。