こころを込めて歌いたい ― 2006/06/03 23:57:12
久しぶりに手話ソングについて書く。本当はこのテーマを書きたいがために立ち上げたブログなのだけど、なぜかスポーツがやたら多いものになってしまった。
さて今日、都内で開かれた、難聴者団体主催の講演会に出席した。
講師は手話通訳士でもある方で、手話ソングも話題になった。
手話はいまでこそテレビで取り上げられるようになったけれど、昔はろう者にとっても難聴者にとっても、聞こえる人からみれば手話を使っていること自体がすでに差別の対象とされてさえいたのだ。なぜか。いくつも理由がある。たとえば、社会に出るときに聞こえる人たちと互角にやっていけない、コミュニケーションの上で難聴者やろう者だけが通じる会話をしては、聞こえる人たちのなかに入っていけないから。手話をつかうとみっともないという理由にさえなっていない理由で、手話を使うことが禁じられていた時代もあったのだ。
しかし、手話を使っていくということはコミュニケーションだけではなく、自分を表す、こころの呪縛を解き放す上でも重要だ。手話を使い歌い、話をする。それがどんなにわたしたち聞こえない人にとって、こころを解き放つことになるか。
手話と日本語では、異なることがいくつもある。
手話は視覚言語である。日本語はそのまま音声言語だ。
この異なる言語を組み合わせる手話ソングダンスは、なにが大事だろう。
気持ちを込めること。楽しいときは楽しく、悲しいときは悲しく。気持ちがこもっていないと伝わらない。
手だけというと抽象的だけれど、気持ちを手のひらに込めていないと伝わらないのではないだろうか。見てもらうための言語なのだから、正確にゆっくりはっきりと、そして気持ちを込めて。
このブログのタイトル「やさしい愛の手のひらで 今日もわたしは歌おう」。
優しさ、楽しさ、苦しさ、いろいろなこころからあふれる気持ちを込めて歌いたい、と思ってつけた。
そう、手話で歌うということは、こころを込めて歌いたいということ。
さて今日、都内で開かれた、難聴者団体主催の講演会に出席した。
講師は手話通訳士でもある方で、手話ソングも話題になった。
手話はいまでこそテレビで取り上げられるようになったけれど、昔はろう者にとっても難聴者にとっても、聞こえる人からみれば手話を使っていること自体がすでに差別の対象とされてさえいたのだ。なぜか。いくつも理由がある。たとえば、社会に出るときに聞こえる人たちと互角にやっていけない、コミュニケーションの上で難聴者やろう者だけが通じる会話をしては、聞こえる人たちのなかに入っていけないから。手話をつかうとみっともないという理由にさえなっていない理由で、手話を使うことが禁じられていた時代もあったのだ。
しかし、手話を使っていくということはコミュニケーションだけではなく、自分を表す、こころの呪縛を解き放す上でも重要だ。手話を使い歌い、話をする。それがどんなにわたしたち聞こえない人にとって、こころを解き放つことになるか。
手話と日本語では、異なることがいくつもある。
手話は視覚言語である。日本語はそのまま音声言語だ。
この異なる言語を組み合わせる手話ソングダンスは、なにが大事だろう。
気持ちを込めること。楽しいときは楽しく、悲しいときは悲しく。気持ちがこもっていないと伝わらない。
手だけというと抽象的だけれど、気持ちを手のひらに込めていないと伝わらないのではないだろうか。見てもらうための言語なのだから、正確にゆっくりはっきりと、そして気持ちを込めて。
このブログのタイトル「やさしい愛の手のひらで 今日もわたしは歌おう」。
優しさ、楽しさ、苦しさ、いろいろなこころからあふれる気持ちを込めて歌いたい、と思ってつけた。
そう、手話で歌うということは、こころを込めて歌いたいということ。
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