5月1日に思う ― 2006/04/30 23:13:35
最近はテレビ中継をみなくなった、F1グランプリ世界選手権。
来年は春に富士スピードウェー、秋に鈴鹿サーキットでと、1国1レースという伝統からはずれて2レースを見ることができる。この1国2レースということを思い出すとき、どうしても忘れられないのは、いまから12年前のことだ…………。
12年前も、日本で2レースが開かれていた。
この年は春に岡山県の英田にある、英田T1サーキットで「パシフィックグランプリ」という名称でレースがあり、秋に鈴鹿で「日本グランプリ」が開かれるスケジュールカレンダーだった。
この年はいまふり返ってみても不思議な、ある意味のろわれていたシーズンだった。
ウィリアムズに移籍したアイルトン・セナが開幕戦からこのパシフィックグランプリまで一度も勝つことがなかった。セナが衰えていたわけではなかっただろうし意欲も失せていなかったはずだ。
しかし悪夢が訪れた。よりによってセナが生涯走りたいと望んでいたと言われるフェラーリチームのホームコース、イモラで。
イモラサーキットは、わたしが社会人になったその年のサンマリノグランプリで、ゲルハルト・ベルガーがタンブレロ・コーナーに激突、マシンが炎上してベルガーが大やけどをしたことを覚えていた。仕事中であったがテレビのスポーツニュースで大きく取り上げられていた、クラッシュの生々しい映像はいまでも覚えている。
そのときと同じ、イモラのタンブレロ・コーナーでセナが事故死した。
あの日友人と近くの食堂で食べて、「そういえば今日はF1中継があるね」
と話し合っていたその時間、遠くイモラでセナが死んだ。フジテレビの中継の直前に他のテレビ局がテロップで「セナ事故死」を伝えたとき、卒倒しそうになった。セナが死んだ? うそだろ? しかしコーナーを飛び出すように、時速300キロから激突直前に200キロ台に減速したとはいえ、あのコンクリートウオールにぶつかりサスペンションアームが折れ、ヘルメットを直撃した(のちに伝えられたところではその衝撃は100Gだったという)のでは、たまったものではない。
今年のサンマリノグランプリは、新鋭の若手ドライバーとしてセナを追いかけ、あの12年前、まさしく間近で事故を目撃した、ミハエル・シューマッハーが優勝した。事故当時、シューマッハーの乗ったF1マシンの搭載カメラから撮影された、セナのマシンがぶつかった瞬間は衝撃的だった。ましてドライブしていたシューマッハーには忘れようとしてもできないものだろう。ベテランになった彼にとって、アイルトン・セナという存在はもう追いかけたくても追いかけることができない。記録を塗り替えることができても追いかける存在がいないのだから。
12年が経ち、あれから死亡事故はなくなった。
だからといって安全になったわけではない。
セナが天に召された年と同じく、来年また、日本で2レースをみることができる。
その喜びをかみしめるとともに、死と隣り合わせの世界で生きている彼らを思う。
セナが残したもの。
F1ドライバーとしての記録もさることながら、生をひたむきに生き、厳しくも挑戦的に生きようとしたことではないだろうか。それはときとしてマスコミや他のドライバーとのあつれきを生んだけれど、挑戦的に生きたからあのような最期をのこし、大きな感動を与えたのではないだろうか。
セナがいなくなったのは5月1日。
来年は春に富士スピードウェー、秋に鈴鹿サーキットでと、1国1レースという伝統からはずれて2レースを見ることができる。この1国2レースということを思い出すとき、どうしても忘れられないのは、いまから12年前のことだ…………。
12年前も、日本で2レースが開かれていた。
この年は春に岡山県の英田にある、英田T1サーキットで「パシフィックグランプリ」という名称でレースがあり、秋に鈴鹿で「日本グランプリ」が開かれるスケジュールカレンダーだった。
この年はいまふり返ってみても不思議な、ある意味のろわれていたシーズンだった。
ウィリアムズに移籍したアイルトン・セナが開幕戦からこのパシフィックグランプリまで一度も勝つことがなかった。セナが衰えていたわけではなかっただろうし意欲も失せていなかったはずだ。
しかし悪夢が訪れた。よりによってセナが生涯走りたいと望んでいたと言われるフェラーリチームのホームコース、イモラで。
イモラサーキットは、わたしが社会人になったその年のサンマリノグランプリで、ゲルハルト・ベルガーがタンブレロ・コーナーに激突、マシンが炎上してベルガーが大やけどをしたことを覚えていた。仕事中であったがテレビのスポーツニュースで大きく取り上げられていた、クラッシュの生々しい映像はいまでも覚えている。
そのときと同じ、イモラのタンブレロ・コーナーでセナが事故死した。
あの日友人と近くの食堂で食べて、「そういえば今日はF1中継があるね」
と話し合っていたその時間、遠くイモラでセナが死んだ。フジテレビの中継の直前に他のテレビ局がテロップで「セナ事故死」を伝えたとき、卒倒しそうになった。セナが死んだ? うそだろ? しかしコーナーを飛び出すように、時速300キロから激突直前に200キロ台に減速したとはいえ、あのコンクリートウオールにぶつかりサスペンションアームが折れ、ヘルメットを直撃した(のちに伝えられたところではその衝撃は100Gだったという)のでは、たまったものではない。
今年のサンマリノグランプリは、新鋭の若手ドライバーとしてセナを追いかけ、あの12年前、まさしく間近で事故を目撃した、ミハエル・シューマッハーが優勝した。事故当時、シューマッハーの乗ったF1マシンの搭載カメラから撮影された、セナのマシンがぶつかった瞬間は衝撃的だった。ましてドライブしていたシューマッハーには忘れようとしてもできないものだろう。ベテランになった彼にとって、アイルトン・セナという存在はもう追いかけたくても追いかけることができない。記録を塗り替えることができても追いかける存在がいないのだから。
12年が経ち、あれから死亡事故はなくなった。
だからといって安全になったわけではない。
セナが天に召された年と同じく、来年また、日本で2レースをみることができる。
その喜びをかみしめるとともに、死と隣り合わせの世界で生きている彼らを思う。
セナが残したもの。
F1ドライバーとしての記録もさることながら、生をひたむきに生き、厳しくも挑戦的に生きようとしたことではないだろうか。それはときとしてマスコミや他のドライバーとのあつれきを生んだけれど、挑戦的に生きたからあのような最期をのこし、大きな感動を与えたのではないだろうか。
セナがいなくなったのは5月1日。
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